で、午前中に野麦峠到着。天気は、上々ですが、雲が多いです。…【地図へ】
時は、明治、信州の製糸工場へ出稼ぎのため少女達が、飛騨から野麦峠を越えた。少女達は、工場が休みになる正月に厳冬期の山を越えるため死者もでたとのこと。お助け茶屋は、そんな少女達を受け入れたが、中に入れないものも多かった。
14歳で働きに出た政井みねは、劣悪な環境と長時間労働に耐え年収が100円を超える100円工女となったが、身体を壊し、兄に背負われて自家に帰ることになった。
背負われて野麦峠まで来たみねであったが、「ああ、飛騨が見える。」と言って息をひきとった。みね、20歳のことであった。という、女工哀史で有名です。
現在のお助け茶屋は、昭和45年に野麦の集落から古い家屋を移築したもの。 |